2016年7月31日。
グレが逝った。
慣れ親しんだ自宅ではなく夫の実家で。
2016年3月中旬。
入退院を繰り返していた義母が終末医療の病院に転院することになり、介護休暇をとっていた次女はそれを機に仕事復帰をすることになった。
そして4月2日
仕事を退職した私は、入院中の義母のお世話の為、グレ、ジュリ、プラの3匹の猫達と夫の実家に入り、義母の病院に通うことになった。
夫は大工だ。
早朝に出掛け、帰宅は夜。遅くなることもしばしば。
仕事をしながら3匹の猫の世話をするのは難しい。
またグレは年齢を重ねるにつれて、夫に威嚇するようになり、私にべったりだった
グレとジュリの腎疾患が気がかりだったが、ステージ2で症状は安定しており、滞在期間は1ヶ月。
猫達は年2回の帰省を何度も経験しており、私は3匹を連れていくことにした。
移動直後は緊張していた猫達だが、いつもの実家に直ぐになれ、こたつで寝たり、畳にゴロンゴロンする様子に私も安心していた。
実家での生活が始まると、義母の介護について聞いていたことと違っていた。
当初は、義姉長女と私が交代で義母のお世話をする予定だった。
しかし、長女は孫を預かっているため病院にはいけないと言う。
長女は市内のアパートで夫婦甥の三人で暮らしている。
夕方4時には姪が孫を迎えにくるし、歩いて15分の病院になぜ行けないのか?
少々腹も立ったが、あまり苦にはならなかった。
私は義母が大好きだった。
片道1時間以上自転車を押して山を越えて、果物やゼリーをスーパーで購入し、義母が待つ病院に行く。
そして軽く潰して義母に食べさせ、冷たいお水を飲ませ、熱いタオルで身体を拭く。
ちょっとさっぱりした義母と少し話をして、着替えを補充し、洗濯物をまとめ、主治医に様子を聞く。
うとうとし始めた義母にまた来るねと挨拶し、買い物をし、自転車で帰る。
雨の日は長女と交代し、私は猫達と一緒にのんびりと過ごす。
いろいろあっても田舎暮らしを楽しんでいた。
しかしのんびりもしていられない。
GWがやってくる。
単身の義兄や近しい親戚も帰省する。
そして義母のお見舞いの後は、実家でもてなすことになるだろう。
次女は家事が大嫌いだ。家中ホコリだらけ、料理は全てお惣菜。
私はホコリにまみれた部屋を掃除し、布団の用意をし、スーパーで大量の材料を揃え、帰省の準備をはじめた。
実家は外食をしないし出前も取らない。
私は嫁いでからこの地で外食したことは一度もない。
三度の食事の支度は私の役目であり、1日のほとんどをキッチンで過ごし、大量の料理を作っていた。
忙しかったGWも終わり、そろそろ埼玉に帰ろうかと思っていた矢先、義母の容態が悪化した。
そして、5月21日に亡くなった。
葬儀は斎場で執り行うことになったが、家の中には大勢の人が出入りしていた。
近しい親族はみんな泊まり込み、私はキッチンで猫達と座布団で寝る。
一番最後にシャワーをあび、2時間ぐらい寝て3時に起きる。
10数人分の朝食の支度をし6時前には食べられるようにしなければならない。
鮭、卵焼き、納豆、おひたし、漬物、お味噌汁など。
7時近くには近所の方が弔問にこられ、お茶とお菓子の用意。
そしてすぐにお昼の支度に取りかかる。
おむすび、卵焼き、野菜炒め、煮物、漬物、うどんなど。
その間にも弔問客はひっきりなしにやってくる。
夕飯は7時。スーパーにお刺身を頼み、天ぷら、唐揚げ、豚しゃぶ、煮物、ポテトサラダ、酢の物、漬物、味噌汁など。
これが、葬儀の日まで5日間続いた。
料理を仕切るのは嫁の役目らしい。
ある程度メニューは決まっており、お刺身は可、お肉は和食らしいメニューなら可、基本手作り、買い物は嫁の役目。
何も知らない私に、親族のお嫁さん達が教えてくれ、手伝ってくれたからできたことだ。
私は全く余裕がなかった。
グレとジュリは隠れてしまったが、プラは大勢の人達に威嚇してしまう。
夫がプラをなだめていたが、私がバタバタしていることでずっと怒っていた。
寝る前に、ごめんね、もうちょっと我慢してね、と猫達に謝ることしか出来ない。
義母の死を悲しむ余裕はなく、ただただ早く終わってくれと願うばかりだった。
葬儀が終わり落ち着いたら帰るつもりでいたが、七日ごとに小さな塔婆を燃やし、お墓は花を絶やさずきれいに保たなければならない。
お墓は近くの小高い山の上にある。
水道がないためペットボトル4本に水を入れ、山を登りお墓を掃除し、皆さんが備えてくれた傷んだ花を持ち帰り、新しい花を供える。
かなりの重労働だ。
これが四十九日までしばらく続く。
仏花を買う店も決まっており、山の上の道の駅に自転車を押して買いに行く。
また、埼玉から来た嫁が珍しいのか、沢山の弔問客の為に、お茶とお菓子を出さなければならない。
甘い物は絶対で地元名店のお菓子を揃えておき、必ずお持ち帰りいただく。
お昼どきであれぱ食事もふるまわなければならない。
道の駅で花を買い、名店でお菓子を買い、スーパーへ自転車を走らせる。
家には絶えず人が出入りしており、猫達は落ち着かない。
私は葬儀が終わっても帰れずにいた。
そして6月26日に四十九日法要を迎える。
これからはお手伝いしてくれる親族はいない。
家中を掃除し、朝5時から天ぷらを大量に揚げ、もち米をふかし、昆布の煮物、ふきの煮物、卵焼き、漬物、うどんなど。
朝食のサンドイッチも作らなければならない。
前日から準備して、約20人分のお料理を全て一人で作った。
四十九日法要のあとは新盆だ。
新盆はご近所の方が沢山来られる。
お料理の量や種類も多いと聞いた。
新盆が終わらなければ帰れないだろう。
帰りたい気持ちを抑えている私に義姉達から遠慮のない指示がとぶ。
白い布とお鈴の台座を買ってきて。
納戸を整理して食器を揃えておいて。
座布団カバーを補修しておいて。
餃子が食べたいから作って。姪の分もね。
孫がグラタン好きだから、沢山作っておいて。
肉じゃが煮ておいて。近所にあげるから。
仲が良い義姉達だと思っていたが、義母が亡くなってからはよくけんかをしていた。
こんな時だからこそ人の本質がよくわかる。
長女は全てのことから逃げていた。
自分は嫁いでいるからこの家の人間ではない。
かわいい孫との時間を犠牲にしたくない。
そして何よりも介護も葬儀も法要もお金はかかるし、面倒でしかない。
次女は喪主としての役割で精一杯だ。
偏食で少食で身体も弱いのに自己管理ができない。
頼りにならない長女に腹を立てながらも、私に全て丸投げすることで解決している。
そしてあんなに義母が可愛がっていた孫達は全く寄り付かない。
関東で暮らす義兄と夫は別格だ。
何もさせないし、大事なお客様扱いだ。
葬儀や法要にまつわる決まりがきちんと出来ない家は非難されると聞く。
それは亡くなった義母にあてられるもので、娘や嫁に正しく教えていないだらしない故人となるのだ。
納戸を整理した時、未使用の食器を多数見つけた。
お返しでいただいたものの他に、義母が少しずつ買い集めたであろうきれいな食器の数々。
大きな農家に奉公に出され、学校に行けなかった義母がひらがなカタカナ混じりで書いたメモが箱に張ってあった。
わん、サラ、ぼん、ガラす…。
遺されたものが困らないように。
恥ずかしくないように。
私は義母を想い、気持ちを抑え、何一つ言い返さず、女中のように淡々と粛々と指示をこなしていた。
7月24日、グレがご飯を食べなくなった。
療養食をピタッと食べなくなった。
市内の動物病院までタクシーで急ぐ。
グレは膀胱炎を発症しており、腎不全がかなり悪化しているとの診断を受けた。
私は全く気づくことができなかった。
注射と投薬、そして毎日輸液に通うこと、もう長くないことを告げられ、目の前が真っ暗になった。
帰りのタクシーでホームセンターに寄り、グレが好きなものを大量に買う。
タクシー料金は往復で8000円を越えた。
その日の夜、夫に泣きながら報告した。
一刻も早く帰りたかったが、今のグレに長時間の移動を強いることはできない。
私はこの家でグレを看とる決心をした。
輸液に通っても日に日にグレは弱っていく。
甘える仕草もあったが、私に抱っこを求める手には全く力が入らない。
それでもスープと薬は飲んでくれ、よろよろしながらもトイレにいく。
そして7月31日。
朝から盆棚を設置するため葬儀会社の人が出入りしており、バタバタしていた。
グレもうちょっと待っててね。病院いくからね。
スープと薬を飲ませ、グレにそう言った。
朝おしっこをしたグレは、洗面所で横たわり、息も荒い。
私は洗濯を干すのを止めてグレの様子を見に戻った。
するとグレは私をじっと見ていきなり痙攣を始めた。
グレ!
私はグレを抱え、義姉の部屋に移動し引き戸をしめた。
痙攣を続けるグレをタオルにくるんで腕に抱いた。
聞いたことのないうめき声、目はうつろで、呼吸は荒く、続く痙攣。
グレ!グレ!
私は名前を呼ぶことしかできない。
一時間程痙攣が続きやがてそれもとぎれとぎれになっていた。
そして、抱いていた私の腕を強く跳ね返し、大きなうめき声をあげ、苦悶の表情でグレは逝った。
びっくりするほど軽くなっていた。
何もしてやれなかった。
来客があり義姉が私を呼んでいたが返事をしなかった。
そしてあらここにいたのとグレを抱きしめている私にお茶とお菓子を命じた。
この貧しい地域では嫁の意思なんて認められない。
いつの時代の話だと思われるだろう。
でも現実に存在する。
嫁いだ家の為に跡取りを産み、女を産むと非難される。
理不尽さに堪えて堪えて堪え忍び、年寄りを看とりようやく自分の家になるのだ。
義母もそうして生きてきた。
でも、
ここは私の家ではない。
今までもこれからも。
盆棚を設置し、お昼過ぎに静かになった家。
義姉は庭に穴を掘っていた。
ここではお骨にすることもできない。
ペット火葬場もない。
市外にあるだろうが、義姉は行ってはくれないだろう。
タクシーで行くにも連日の病院通いで現金がない。
私は全てをあきらめ、グレを横たえグレが好きだったシーバと花を置き、土をかけた。
その後夫にグレの死を報告した。
二人で号泣するだけだった。
子どもを持てない私達が、決意をして迎えた最愛のグレ。
もうすぐ13歳だった。
グレの寿命を縮めたのは私達夫婦だ。
グレの叫びに気づいてやれず、大きなストレスをかけ、腎不全を悪化させてしまった。
最低な飼い主。
あんなに暑く騒々しいところで、あんなに苦しんで逝かせてしまった。
お骨にすることもできず、あんなところに埋葬してしまった。
予定通り1ヶ月で帰っていれば。
義姉達のわがままを無視していれば。
悔やんでも悔やみきれない。
強い意思を持てなかった私がグレを苦しめたのだ。
その後のことはあまり記憶がない。
女中らしく淡々と粛々と新盆と初彼岸を務めただけだ。
そして、
残されたジュリとプラを守り、
グレに詫び、
無事帰れることだけを願う日々だった。
埼玉に帰れたのは9月25日。
半年ぶりの自宅に涙が溢れて止まらなかった。
ジュリとプラは何事もなかったように家の中を歩いていたが、ここにグレはいない。
ジュリとプラが泣いている私を見上げ、側を離れない。
それはあの家で何度も何度も2匹の猫が私にしてくれたこと。
オカアチャン泣いてばっかりだね。
ごめんね。ありがとうね。
半年ぶりに我が家で眠りについた。
あれから4年が経った。
グレを想う度、あの苦悶に満ちたグレが私の中に現れる。
それは4年経った今でも変わらない。
その日がきたら、
虹の橋で、
グレは私に逢ってくれるだろうか。
私を許してくれるだろうか。
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