そもそも都会でもサザエさんの時代、完全室内飼いをしている家は殆どなかったはず。当方宅(具体的には同じ敷地に建っていた祖母宅)で猫を飼っていた’81年時はもちろん、現在でも私の地元集落では、完全室内飼いをしている家はないのではないでしょうか。それは集落を通る車道が皆、幅員の狭い一車線ということも関係しているでしょう。
完全室内飼いした方が猫にとって幸せ、という意見が多いのですが、果たしてそれは猫の立場に立っているのでしょうか。確かに室内なら交通事故や動物虐待者に遭うことはなく、他の野良猫からウイルスをうつされることもなく、寿命は延びます。その代わり、動物の本能は退化し、ねずみを取ることすらできなくなるケースも少なくありません。
産まれた時から室内で飼われている猫は室内が世界の全てになるので問題ないのですが、野良猫が室内飼いの家猫となった場合、猫の立場に立つと、行動範囲が狭まることと、「集会」に出られなくなるのが辛いような気がします。集会を行う理由等は解明されてないものの、人間社会で言えば、自治会や町内会の常会のようなものではないでしょうか。
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猫の集会では井戸端会議も行われるでしょうし、地域内の掟や新規の取り決め事項の確認、新人(猫)の紹介、病気や死去した猫の情報等が交換されるでしょう。当該地域の野良猫にとっては、集会への参加が「つとめ」になっていることでしょう。
私の「家野良」も以前、深夜0時位に、門扉下に他の野良が現れ、目で合図を交わし、出て行っていました。
ただ、’81年時、祖母宅で飼っていた猫は、室内飼いをしていたら、寿命が1年(ないし2年)程度で尽きることはなかったでしょう。その「惨劇」は突然起こりました。
ある日の夕方、飼い猫(名前は今の家野良と同じ「シマ」)が何かを片方の前足に引きずりながら帰宅したのですが、その姿を見た時、絶句しました。
引きずっていたのは自らの足の皮で、その足は肉が全てそぎ落とされ、肩からつま先まで、骨だけになっていたのです。片目の瞳孔も開き気味でした。祖母は、野良犬に襲われたか、車の下に潜り込んでいて、車が発進時に足を轢かれたのではないかと言っていて、当時の私はその理由にやや違和感を覚えながらも納得していました。
その後、動物病院に連れて行ったものの、「手の施しようがなく、死ぬのは時間の問題」と説明を受け、「このまま痛みに苦しみながら死ぬより、安楽死させた方がこの猫のため」という医師の勧めで安楽死させました。
その日から三日間、私は泣き続けました。そしてこのことがトラウマとなり、猫を飼うことが35年間できなかったのです。
今の「家野良」は永遠に懐かない可能性があるため、完全な飼い猫にすることは無理かも知れませんが、もしその猫がいなくなれば、野良猫スポットから猫を連れてくるかも知れません(去勢・不妊手術の上)。しかし「猫の立場」に立てば、完全室内飼いには躊躇してしまいます。
PS:今回の日記は、決して室内飼い支持者を非難するものではありません。「室内飼い=猫の幸せ」という風潮に違和感を抱いた故のことです。
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