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かくれんぼ だよ。
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(ささっ)みつからないように…と。
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あれ?ねぇ、誰も探してくれないの?
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ねぇ?ねぇってばー
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もう、ボク眠たくなっちゃったよ…
ここから先、『お別れ』の話です。
猫を遺して逝くこと…
少し前、目にした日記。
書いた方に承諾も得ていないので あまり詳しくは書けませんが。
ご本人が闘病されていて、飼っているねこちゃんの行く末についてのことを書かれていました。
でもまだ手離す気持ちになれない、と涙されているとのことでした。
私の母は、以前から何回か書いていますが卵巣がんで亡くなりました。
最期はホスピスで看取ったのですが。
とても行き届いた 優しさと思いやりに溢れたあたたかい病院で。
入院中、クリスマスには讚美歌が聞こえ、
毎日のようにボランティアの方がアロマテラピーやマッサージ、
そしてペットと離れて暮らす入院患者さんのためにと犬や猫を連れてきてくださるボランティアもありました。
わんちゃん や ねこちゃんは、広間だけではなくベッドから動けない方にはお部屋まで連れてきてくださったりもしました。
(わんちゃんやねこちゃんの負担についてはこの場では触れませんが、どういう団体が協力してくださっていたのかなどの背景は私もわかりません)
そのわんちゃんやねこちゃんが来てくれると、
犬猫大好きだった母は嬉しそうに
「ねぇ、あのコ トムちゃんに似てるでしょ」とキジトラの猫を指して言い。
抱っこさせてもらったり、触らせてもらったりしていました。
ホスピスにうつる以前は入退院を何度か繰り返しており、
退院したり一時帰宅すると、留守番していたウチの猫と一緒に過ごしていたのですが
病状は悪化して。緊急入院。
その後ついに延命措置(治療行為)をやめる同意書にサインをし、
ホスピスの個室にうつる日が来ました。
あんなに嬉しそうに わんちゃんやねこちゃんのボランティアを楽しみにしていたのに。
ホスピスにうつってしばらくすると、
「今日はいいわ」と わんちゃんやねこちゃんに会うことを許否するようになっていきました。
その頃の私には、なんでかな?
ま、そんな日もあるよね。位にしか思っていなかったのですが。
今になって。
いまだになんでだったのだろう?と思うのです。
ずっと心にひっかかっているのです。
もしかすると、母にとって犬や猫とふれ合うことで また家に帰ってウチのコに会おうと。
生きる気力のようなものを奮い立たせる原動力になっていたのではないか、と。
…違うかもわからないけれど。
もう会うことができないことを覚悟をしたから、「今日はいい」と言うようになったのではないか、と。
…単に身体がキツくなったからかもしれないけれど。
でも。
私がもしも同じ境遇におかれたら
このコたちのために生きなければと。
生きるための支えのようなものに感じるのではないかと。
そんな風に思いました。
母は緊急入院したきり、ホスピスにうつり。
結局なくなるまでもうウチの猫を抱くことはできませんでした。
…在宅で看取って欲しい。その気持ちはお互いにわかってはいたのですが口には出しませんでした。
住環境的にも医療的にも 介護 看護することが限界なのはそのこともお互いにわかっていたから。
それでもやっぱり家で過ごしたかったのかもしれないな…
冷たくなって帰宅した母に猫たちはとても戸惑っていました。
出棺は猫たちにも見守られ、お別れをしました。
その後は娘である私が、2匹の猫を引き取り亡くなるまで一緒に暮らしました。
何が言いたいのかわからない文章になってしまいましたが。
確かに 自分が不治の病だとわかったら。
自分亡き後も生きるペット(という言い方は好きではないですが)のその先を考えるべきなのはわかっていますが。
1秒でも長く、そのぬくもりと共に過ごしていたいと私も考えてしまうだろうな…と。
それは自分のエゴなのはわかってはいても。
それが最後まで生きるための 望みのようなものになるのではないかなぁと。
…漠然と思いました。
どうかあの日記を書かれた方が、愛猫さんと納得のできる、安心できるお別れができますように、と願います。
できることなら病気が回復されて、猫さんとずっとずっと一緒に暮らせますように…
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