特に晩期。
病を抱えたにゃんこの飼い主は、それを嫌というほど思い知らされる。
腎不全BUN140の猫友さんのおうちのコがよくなりますように。
願うしかないのも、口惜しい。
なおさんちまでの距離(車で1時間弱)ぐらいなら、
私の雑なやり方でよければ、ぶす。と、輸液しに通うのに。と、思う。
「生きて欲しい」と思う。
けれど、本にゃんの苦しみを思うと、
私なら、どこまですべきなのか、してあげることができるのか、
何をどうしても後悔は残るだろうし、気持ちのジタバタが止まらない。
勝手に推測して、ネオを思い出して切なくなる。
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猫にも腎臓移植の例は存在するし、
透析も、できる病院はあるそうだけれど、
ニンゲンと違って猫の大きい?太い血管は、その頻度に対して持たず、
そこまでして、そこから元気に長く生きてくれるかどうか、
猫への負担を考えると『現実的ではない』と、
なんでもかんでもハッキリ言う係り付けの先生は言っていた。
看取った後の結果論だけれど、
ネオのときもチョコたんのときも、
最期のときがわかっていれば、
食べたがるうちに、死ぬほどちゅーるをあげたかった。
それぞれの考え方や猫への想いは違うけれど、
何をしてあげられるかは、
結局、飼い主が決めてやるしかないし、だからこそ難しいし苦しい。
カワイイ。癒される。
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『飼い主になる』と言うことは、そんな甘っちょろいモンじゃない。
ココロのどこかに、いつでもそういう覚悟を持っていなければならないと思う。