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また、そうあるべきだと思います。
さて・・・。
さて、今日のお話は・・・。
蓮(ハス)の花のお話です。
蓮華(れんげ)ともいいます。
よく、大きなお寺の法要などで「散華(さんげ)」というのをします。紙に印刷した蓮の花びらを散らすのです。それを檀家(だんか)さんらが皆、「ありがたい!」と言って家に持ち帰るのですね。
なぜ、あのような風習が仏教に伝わっているかと申しますと。
「蓮の花」は、お釈迦様が常に例えとしてよく説法して下された花だからです。

銭の花の色は清らかに白いニャ~!
(ノ^∧^)ノ 細うで繁盛期か? ← これ知ってる人はかなり古い。
失礼、またも脱線。
さて・・・。
今から約2500年前・・・。
お釈迦様と、そのお弟子さん達ご一行が、沼のほとりで休息されてました。そのときお釈迦様が、その沼地を指差してこうおっしゃったそうです。
「あの沼地を見なさい、沼には美しい蓮の花が咲いている。あるものは水の上に、あるものは水の中に咲いている。」
「しかし水の下は泥沼で汚れているだろう。決して綺麗(きれい)なものだとはいいがたい。」
「お前達の肉体も、あの蓮の花と同じことが言えよう。」
「眼を見なさい。疲れたときや眼病にかかれば目糞が出るだろう。鼻糞、耳糞、歯糞、汗、大便、小便。なにひとつ綺麗なものが出ない。」
「私たちの肉体は、まさに泥沼と同じである。この泥沼のような肉体に執着を持って苦しみをつくっている。」
「しかし、この肉体が泥沼のように汚れていても、心が「法」を悟ってこの法にかなった生活をしたならば、あの蓮の花のように美しく、大自然のなかに調和され、心の中は安らいで生活ができるのである。」

さてさて・・・
このように説いたものが、法華経(ほけきょう)の根本となったそうです。
肉体は泥沼(どろぬま)・・・。
その「泥沼」のような肉体に、私たちは捉(とら)われて苦しみをつくっている。
しかし、この不浄な肉体あればこそ、あの蓮の花のようなケガレなき心の花を咲かせ、心の実りを実(みの)らすことができるというのです。
なぜなら。
蓮(ハス)の花は決して清らかな「清流」では咲きません。四国は高知県の清流四万十川(せいりゅうしまんとがわ)でも見たことが無いのですね。
ドロドロとした「泥沼」あればこそ咲くことができる蓮の花・・・。
この肉体も、私たちが暮らしている社会も、まるで泥沼のようです。しかし泥沼であればこそ、美しい花を咲かせることができるという教えですね。
さて。
話をもとに戻しますと・・・。
お釈迦様といえば、蓮の花。そして仏教は蓮の花がシンボルマークです。尊いお釈迦様がご説法下さった時に、空から金粉と蓮の花びらがヒラヒラと降ってきたということが、仏典に載ってるそうです。
だから法要の時に蓮の花びらを散らすようになっているのです。
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
南無、とは「帰依します。」という意味。したがって「私は(お釈迦様の)蓮の花の教えに帰依します!」という意味でよろしいかと存じます。
他の宗教を邪教(じゃきょう)と批判したり、現世利益を説く教えではございませぬ!
(*^_^*) あしからず!

「肉体も世の中も泥沼!」にゃ~!
(;^^)ノノ 蓮の花を咲かせてみんしゃい!
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