仏教ではこれを「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といいます。
今、私の家の上空に「白いまんまるい雲」がポッカリ浮かんでいます。実にみごとな、まぁるい、まんまるい雲であります。「いやはや綺麗だなぁ。」と、口を空けて見入ってますと・・・。
一分経過、三分経過、五分経過・・・。
まるい形は、しだいにくずれ薄くなり、やがては消えて無くなってしまいます。
あぁ、残念。消えちまったよ・・・。
と思っていましたら、時間がたつにつれ、なんと今度は場所を変え、形を変え、またもやポッカリ雲が出現しているのであります。
決してなくならない。
一瞬たりとも同じ形でいることは無い。つねに流れ変化し、そして流転するのです。
万象万物ことごとく、眼に見える色(物質)にも、常にこの法則が働いているわけであります。
もうひとつ・・・。
「色即是空(しきそくぜくう)」という有名なことばがあります。
色(物質)すなわちこれ空(くう)なり。
空(くう)というのは、「からっぽ」という意味ではなく、「実体がない」という意味であります。
先程の雲の説明でも申しましたとうり、「万物はつねに流れ、変化し流転(るてん)する。」のですから、実体がつかめない。したがって「実体がない」のであります。
「色即是空(しきそくぜくう)。空即是色(くうそくぜしき)」
色(物質)や形(現象)のあるものは、実体がないものであり、実体のないものは、色や形があるものである。
なんとも・・・。
深遠なる真理でありますこと。
しかし、上記のことが理解できてないと、般若心経を解読し理解することなど不可能なわけでして。
「空だ無だ。あると思えばある。無いと思えばない。」などの、なんともチンプンカンプンな説明になってしまうのであります。
さて・・・。
なにぶんにも、この私は・・・。
九州は宮崎県の某有名神社を代々継承する家系の分家の分家。でありますので、神道のことなら、まぁそれなりに知識などございます。
ところが・・・。
仏教やキリスト教などは畑違いでありまして、あまり勉強などはしておりません。
したがって、話半分いや十分の一くらいでお聞き流して下されば結構かと存じます。
般若心経(はんにゃしんきょう)は、ほとんどの仏教の各宗派で唱えられ、最も知名度の高いポピラーお経として有名であります。日蓮宗系や浄土真宗系では唱えない。と、まぁ、そのように私は認識しているわけであります。
日蓮宗系=法華経(ほけきょう)
浄土真宗系=浄土三部経(じょうどさんぶきょう)
であります。
さて・・・。
般若部の経典は、数多く存在し、「大般若経(だいはんにゃきょう)」といって、なんと六百巻もあるのです。その中から特に重要な部分、つまり「エキス」だけを抜粋し、二百六十八字にまとめたものが、般若心経(はんにゃしんきょう)なのです。
エキスだけを抽出し、並べているのですから、解読不能、意味不明が当たり前?
と、そのように私は認識しております。
それでも・・・。
「いや、そうではない。三百六十五通りの解釈ができるのである。」と言う偉い坊様もいるのです。
そのくせ・・・。
「般若心経は空(くう)だ無(む)だ。あると思えばある。ないと思えばないのだ。」
などと、真顔で説明してくださるので、ますます理解不能となるのです。

摩訶 般若 波羅 蜜多 心経(マカ ハンニャ ハラ ミタ シンキョウ)
直訳すると・・・。
摩訶(マカ)→ 偉大な。深遠な。
般若(ハンニャ)→ 智慧。
波羅(ハラ)→ 到達する。
蜜多(ミタ)→ 内在された。
心経(シンキョウ)→ 心の教え。
つまり・・・。
「内在された、偉大な智慧に到達する心の教え。」
となります。
ちなみに・・・。
サンスクリット語では、「マハー、パニャー、パラー、ミター、スートラ」
といいます・・・。
怒り、そしり、ねたみ、恨み、憎しみ。疑いや嫉妬。猜疑心。傲慢。不平不満不足の心。足ることを知らぬ欲望。貪欲。自己保存、自我我欲。煩悩(ぼんのう)etc・・・
などの雑念をもって、世の中を見るから、迷いや苦しみがおこるのであって、なにものにも捉われない、無垢で自由な心をもつことができれば、いっさいの苦しみから解放される。
という「心の教え」
そのように理解してよろしいかと存じます。
般若心経は、冒頭に「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみた)を行じた時。五蘊(ごうん)はみな空(くう=実体がない)なり、と照見し、一切の苦厄を度したもう。」と教えています。
すなわち、般若波羅蜜多を実践すると、内在された、偉大な智慧(ちえ)に到達し、あらゆるものが空(くう=実体がない)であると照見して、一切の苦悩から救われると言っているのです。
もともと・・・。
人間の心の中には、転生輪廻(てんしょうりんね)の過程で得た過去のすべてが記憶されているのですが、心の不調和な想念行為。
つまり・・・
「怒り・そしり・ねたみ・うらみ・憎しみ・貪欲・・・etc」
などの「悪想念」によって、あたかも心に「スモッグ」が被さった状態になっていまして。それが「神仏の光」を遮断し、「盲目の人生」。すなわち、迷い多き、苦しみ多き人生を引き寄せる。
というわけです。

チ~ン・・・
摩訶般若波羅蜜多心経
(内在された、偉大な智慧に到達する心の教え。)
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、
(観自在菩薩が、内在された偉大な智慧に到達するための生活行為を深く実践された時。)
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
(人間の心身を構成している五つの要素(色・受・想・行・識)は、いずれも実体がなく、本質的なものではないと見極められて、すべての苦しみを取り除かれたのである。)
舎利子。
(釈迦の弟子、サーリープッタ。)
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
(色(物質)つまり形あるものは実体がないことと同じであり。実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在すのである。)
受・想・行・識亦復如是。
(残りの、心の四つの働き。受(感覚)・想(表層)・行(意志)・識(意識・知識)も、まったく同じことなのである。)
舎利子。
(釈迦の弟子、サーリープッタ。)
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
(この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、清浄なものでもなく、汚れたものでもない。増えることもなく、減ることもないのである。)
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、
(したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚も表層も意志も知識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もない。)
無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。
(形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、それらを受けとめる、眼識から意識に至るまでのあらゆる分野もないのである。)
無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。
(さらに、迷いもないし迷いが尽きることもない。ついには老いることも無ければ死もなく、老と死がなくなることもないのである。苦しみも無ければ、その原因もなく、したがって苦しみがなくなることはないのである。)
無智亦無得。以無所得故、菩提薩垂、依般若波羅蜜多故、心無圭礙、無圭礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
(深遠な真理を知ることもなければ、得ることもない。悟りを求めている者は、内在された深遠な智慧に到達する生活行為をおこなっているから、心に執着するものがなく、また、こだわりがない。それ故に恐怖におびえることもない。そして、ついには遠く離れた夢想の境地。永遠に平安で安逸なところ涅槃にいたるのである。)
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
(三世(過去・現在・未来)の諸仏も、こうして内在された深遠な智慧に到達する生活行為をおこなうが故に、この上なき悟りを得られるのである。)
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰。
(人は知るべきである。内在された偉大な智慧に到達するための真言を。これは大いなる真言である。これは比類なき真言である。一切の苦しみを除き、いつわりのない真実そのものである。内在された偉大な智慧に到達し悟りを得るための真言。それはこの真言である。)
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。
(往ける者よ。往ける者よ。彼岸に往ける者よ。悟りよ。)
般若心経
(智慧の完成について説く心の教え。)
チ~ン・・・

「腹へった心境!」にゃ~!
ヽ(^ー^)ノ 喰う!
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