ララが虹の橋を渡った後、私は何度もララの夢を見ていました。
夢の中にララが出てきて「久しぶり!」って思って、いつも家にいたララを見て何で久しぶりに会ったって思うんだと考えて、そうだララはもう死んだんだと夢の中で気付き、目を覚ますと泣いている……そんなことを繰り返していました。
でも、もう猫はいいと思っていました。
外飼いの犬を亡くした経験は何度かありましたが、常に家の中にいた猫がいなくなるとこれほどのダメージを受けるのかと、もうこんな悲しい思いはしたくないと思っていたからです。
また、実家を出たいとも考えておりましたので、賃貸独り暮らしで猫と一緒は、ほぼ不可能だろうと思っていたためです。
しかし、犬派だった父が、いつの間にか猫派になっており、新しい猫を欲しがっていました。
ララがいなくなった翌年の春、父の知人のところに複数のペルシャの仔猫がいました。
それを知った父は、見に行こうと私を誘いました。
昔から、そうなんです。
犬猫以外の動物も好きな父は、母に反対されそうだと思うと、必ず、私を巻き込みます。母が文句を言った時に、私を理由にするためです。
元々、猫好きな私が、ペルシャの仔猫がワラワラといると言われると、無視できるはずがありません。
そして父は当然、見に行くだけでなく、連れて帰る気で出かけました。
その時も、私は黒猫が良かったんですが、1匹だけいた黒い子は、目も暗い色で、何が何だかわからない毛玉のようでしたので、じゃいいやと、父に選ばせました。
父が選んだのは、人懐こいグレイの子でした。その子が椰(ナギ)です。
後に母から「あんたの猫は、見た目だけしか、ええとこない」と文句を言われましたが、ララも椰も、私が選んだ猫ではありません。
私が世話した猫ではありましたが。
ララの時、6歳児だった私に「自分が欲しいと言ったんだから、自分で世話しなさい」とララの世話をさせたくせに、椰のことは「猫の世話はおまえの担当やろ」と父は丸投げにしてきやがりました。
当時の私はフリーターで時間もあったし、実際、仔猫を目の前にしたら、放っておけるはずもなし。
世話を引き受ける代わりに、名前は私がつけました。
「椰」というのは、現在はエッセイマンガを中心に活躍されている流水りんこ先生が、ホラー中心で活躍されていた頃の作品タイトルであり、ヒロインの名前です。
作中、名づけの由来として「椰の木の実には、ひとの願いを叶える力があると伝えられている」と説明されています。
私の願いをかなえて欲しいと「椰(ナギ)」と名付けました。
しかしまあ、猫につける名前じゃありませんでしたね。
ヒロインの椰ちゃんの願いが叶うようにとつけられた名前なんですから。
その後17年、椰の願いをかなえ続ける生活が始まったわけです。
ただ最近、私の願いも叶えてくれていたんだなと思うようになりました。
椰と一緒にいたい。
それだけが私の願いだった。そして椰は17歳まで生きた。
猫の寿命は延びています。20歳越えもそんな珍しいことではなくなりましたが、平均寿命は15歳くらいです。
更に、雑種より純血、雌より雄、短毛より長毛のほうが、平均寿命は短い。
椰は雑種だけど雄の長毛種で、4歳の時に尿道砂粒症をやっていました。
そんな子が17歳の誕生日を迎えるまで生きたというのは、「椰」のおかげなのではないかと思うようになりました。
元々、椰は「血統書はないけどペルシャの雌猫」ということでもらってきたのですが(だから名前もヒロインから取った)、育ってみると、雑種の雄でした。
おチビさんが、貫録たっぷりに成長したり、大人になったら体毛の色や柄が変わったというネコネコ詐欺はよく聞きますが、この詐欺はひどすぎやしないかと。
でも、3日もあれば情が移るもので、結局、そのまま一緒に暮らし続けることとなりました。
椰と過ごした17年は全部覚えています。
とにかく、手のかかる子でした。
まず、トイレの場所を覚えても、私が在宅していると、一人でトイレに行かない。必ず私を呼ぶ。私が行かなかったり、遅れたりしたら、その場で排泄。
一人でトイレに行くようになるまで、半年ほどかかりました。その後も、片付けろと、終われば私を呼びつけていましたが。
何かにつけて人を呼ぶ子で、付き添いの必要な子でした。
1階にいた私を2階に呼びつけ、何だと思えば、1階に降りるのに迎えに来いだったり。
ご飯食べる時は横で見てなきゃ嫌だとか。
膝だけでなく、寝転んでいたらお腹に乗るし、うつ伏せだと腰に乗るし、挙げ句は顔を踏んづけていくし。
椰が呼んだ時にすぐ私が行かない、私が自分の言うことをきかないというのが、どうやら椰にとって最大のストレスのようでした。
実際、私が仕事で疲れ切って、椰の相手をちゃんとできなかった時には尿道砂粒症が再発しかけ、仕事が忙しくなり残業が多くなると麦粒状皮膚炎になったりしていました。
ニャアと鳴きさえすれば、自分の欲求はすべて通る(私が思い通りに動く)と思い込んでいる子でした。
きっと自分のことを、この世で一番エライと思っていたはずです。
その割に、ビビりでした。
ある時、近所に落雷があり、すごい音がしました。
「びっくりしたなあ」と、隣にいたはずの椰に話しかけたら、椰はいませんでした。音に驚き、私を置いて逃げ出してました。
ゴキブリを見ても逃げるし、鳥のヒナを見ても逃げるし。
小さなクモを見つけた時は、肉球でポフポフするだけで、爪を出しませんでした。
私の手には爪も牙も出すのに。
抱っこの好きな子でしたが、普通、猫って抱っこされる時、自分から掴まってきますよね。
しかし椰は、抱いて階段を上り下りする時でさえ、掴まってきませんでした。
基本的に、犬を抱くような方法か、仰向けで人間の赤ちゃんを抱くような方法での抱っこでなければだめでした。
振り返るとほんと……何であそこまでエラソーだったんだろう……
さて、31歳の時、私は実家を出ました。
元々、両親とはあまり折り合いが良くなかったのですが、ちょっと父親と決定的な喧嘩をしまして、もう一緒に暮らすのは無理になったのです。
その時、考えたのは椰のことでした。
椰と一緒に実家にいるか、椰を連れて出るか。
椰を実家に置いていくという選択肢は、私にはありませんでした。
当時の私は派遣社員をしており、給料は今の2/3程度でした(現在は正社員です)。
経済的に非常に厳しい状況でしたが、私は椰を連れて実家を出ました。
椰だけは捨てないと決めていたし、椰だけは捨てられなかった。
それから、椰と2人きりの生活が10年ほど続きました。
友人とは年賀状のやり取りだけ、実家を出た経緯が経緯なので親とも連絡を取らず、弟も他県にいましたから、仕事以外では椰としか接することのない生活が、しばらく続きました。
数年後には祖母の入院や母の病気、弟の結婚、甥の誕生などがあり、家族とは連絡を取るようになりましたが。
私の30代というのは、波乱に満ちた時期でした。
正社員への昇格や弟の結婚という目出度い話もありましたが、それ以上に、悪い事が多かったです。
「他人事だと思っていたことが、我が身に降りかかる」そんな時期でした。
祖母の死はもう94歳だったんで当然のことですが、母が若年性認知症を発症しました(今は私の事もわかりません)。
そして私は、職場の人間関係で適応障害になり、安定剤を飲みながら出勤、それが回復した後は乳癌になりました。
私を支えたのは「椰を守らなければ」という一心でした。
2人きりの生活で、椰はすっかり人見知りになっており、なおかつ、年を経て嗜好が細かくなり、私でなければ椰の世話はできませんでしたから。
私が倒れたら椰はどうなるのか。
それだけで、すべてに耐えました。
私に依存しきっていた椰に、私は依存していました。典型的な共依存関係でした。
今年の2月、私に異動の話が来ました。
詳細は省きますが、私に非があったわけでもなく、昇級でもなく、会社の都合と上司の尻拭いが理由という、不条理な理由で私は自分の居場所を奪われることとなりました。
しかしその時、すでに椰は腎臓を悪くして、週1回の点滴がなければ生きられない状態でした。
会社を辞めることはできない、会社と喧嘩もできない。
とにかく今の収入を守らなければ、椰を守れない。点滴は1回4100円してましたから。
私は異動を了承しました。
そして私が新しい業務に慣れ始めた4月の終わり、椰は虹の橋を渡ってしまいました。
椰は私をこの世に繋ぎ止める楔のようなものでした。
自殺願望というほどではないにしろ、生きることに積極的な意味を見いだせない私に、まともな社会生活を送らせたのは椰の存在でした。
椰を養うために、病院に連れて行くために、まず必要なのはお金ですから。
椰が死んだら、私が生きなければならない理由がなくなる。一緒に死ぬのもいいか、と考えていました。
でも職場の異動で、私が抜けるとかなり広範囲の部署に迷惑をかけるという状態になっていました。今の業務を担当しているのが私一人なんですね。で、特別な資格や専門知識が必要なわけじゃないけど、それなりの経験が必要という業務なので、すぐに代理を立てられないのです。
異動前の業務なら、別に私が抜けてもそう迷惑をかけることにはならなかったんですけどね。
椰に、後を追うなと言われているように思いました。
けれど、椰を失ってそれでも生きるのは辛くて、はーろを迎えるに至ったわけです。
椰の事は、これから何度も書くと思います。
17年、椰には私だけで、私にも椰だけでした。
私は椰のために生きていました。
椰とはほぼ完全に、意思疎通ができていました。相手の欲求がわかったからと言って、その欲求を聞くかどうかはまた別問題でしたが。
私たちは2人で一つでした。
癌で亡くなられた詩人・小説家の高見順氏の詩に、こんな一節があります。
「魂よ、俺はおまえなんかより、食道のほうがずっと大事だった」
自分の魂より、癌によって失った臓器のほうが大事だったんだと書かれた詩です。
私も癌で左乳房を切除しました。その後のホルモン治療で、まだ妊娠出産できる年齢なのに、閉経しています。
私は、癌で失った乳房や卵巣機能より、椰のほうがずっと大事だった。
自分の体の一部なんかより、椰のほうが大事だった。椰を失いたくなかった。
宇宙海賊キャプテン・ハーロックは、亡き親友を回想しながら、こう語ります。
「宇宙万物の真理で、たった一つ気に入らないものがある。それは死んだ者が生き返らないということだ」
まったく同感です。
椰が虹の橋を渡った後、自分も含めて生きているすべてが憎かったです。
椰が死んだのに、生きている命が許せなかった。
犯罪者だとか、生きる価値のない命なんて、幾らでもあるのに。
何故、椰が死ななければならなかったのだと。
17歳。
腎臓を悪くしなくても、老衰で死んでもおかしくない年齢です。
私の怒りも憎しみも、不条理なものだったのでしょう。
椰を斎場に連れて行った時、赤いツツジが咲いていました。
快晴の青空でした。
世界はこっちの精神状態なんかには関係なく美しい。
はーろを迎えて、随分と落ち着きました。
椰が開けた穴に、やっぱり、はーろが完全に収まりきるはずもなく、隙間風が吹いているけど、ずっと楽になりました。
今は、はーろが私の楔です。
はーろを守るために、生きています。
はーろを迎えることを決めて、顔合わせして、いよいよ、はーろが我が家に来る2日前に、また異動の打診をされました。
どうなるかはまだわかってないんですが、今回も、会社側のミスによるものです。
何でこのタイミングなのかと思いました。はーろと出会う前なら、そんな不条理を許容できるかと、辞めることもできたのに。
非常に不愉快極まりないが、会社が今の給料と休暇を保証してくれるなら会社の指示に従うと回答しています。
つくづく、猫に支配されている人生ですね。
テーブルの上で澄まし顔の椰です。昔の携帯で撮ったので、画質悪い。
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