椰が逝ってしまって、4か月が経ちました。
まだなのか、もうなのか、よくわかりません。
椰を連れて実家を出たのは、椰が7歳の時でした。
次の引っ越しは、椰が14歳の時でした。
笑う人は笑うでしょうが、引っ越しの時期や方角、占ってもらったんですよ。
結構、スピリチュアル系信じる方なんで、引っ越しって流れが変わることだから、悪い方に変わったら、その禍は老猫である椰に降りかかると思ったので。
時期も方角も、丁度良いところでペット可のアパートが見つかり、引っ越しました。
実家に7年、最初のアパートに7年いたんだから、今度のアパートでも7年一緒に過ごそうねと言ってました。
結局、3年だけしか、一緒に過ごすことはできませんでした。
2014年12月、朝起きると、いつも布団の中か枕元にいるはずの椰がおらず、トイレの中で座り込んでいました。
椰は自分の排泄物の匂いが嫌いで、トイレは仕方なく入るという感じで、長居はせず、汚れているとよく怒っていた子でした。
とりあえず、布団に移して、仕事に行きました。
昼に一旦帰宅してみると、しんどそうにしていましたが、急を要するほどの症状はなかったので、また仕事に戻りました。
それから定時で退社して、病院へ連れて行きました。
「腎臓が小っちゃくなってる」
椰を診察した先生は、そう言いました。
「腎臓が悪いということは、もう治らないんですね?」
たずねた私に、いつもニコニコしている先生が、沈んだ表情で頷きました。
あまりにも唐突でした。
振り返ってみると、10月頃から嘔吐の回数が増えていたように思います。
でも、元々よく嘔吐する子だったんで、気にしていませんでした。
昨夜まで、それ以外、何も変わったところはなかったんです。
腎臓は再生不可能な臓器。一生、薬で命をつないでいくしかない。
足元が崩れるような感覚に襲われました。
自分が癌宣告された時よりショックでした。
私と椰は2人きりで生きていました。
重い現実を、分け合える相手が私にいませんでした。
とりあえず、毎日、点滴に通うことになりました。
やたら水を飲むようになり、排尿だけでなく失禁も多くなりましたが、それ以外は徐々に元に戻りました。
点滴も、1日置き、2日置きと、間隔をあけて様子を見るようになりましたが、悪化することはなく、1週間に1度になりました。
ちょうど年末年始を挟んでいたのですが、先生は病院がお休みの間も、椰の為に特別に病院を開けてくれました。
椰が仔猫時代からずっとお世話になっていた先生です。
元々は、椰をもらってきた頃、ちょうど近所に開院されて、実家近くだから通うのが楽だというだけで通っていました。
引っ越した後は、少し遠くなって、自動車以前に運転免許を持っていない私は自転車しか手段がなく、通院は大変でしたが、ずっと診ていただいてたんで、年末年始の対応もしていただけたんだろうと思います。
引っ越した時、病院を変えることも考えたんですが、椰が尿道砂粒症をやって、処方フードだったから、他の先生に診てもらうとなると、説明が面倒だというだけでやめたんですけど。
段々、元気を取り戻した椰は、病院から帰る度、すごく怒っていました。
人見知りで内弁慶だから。
病院だと私にしがみついてたのに、帰宅するなり、風呂場で浴槽の縁に上がって、ギャーギャー喚いていました。
知らないところに連れて行った、痛い思いした、何してくれるんだって。
私の方も、点滴しなきゃ死んじゃうんだよと言い返していました。
浴槽の縁に一気にジャンプして上がれるくらい元気になったんです。
それだけでなく、椰は今のアパートに引っ越してから、何故か浴槽で排便するようになっていて、それはこの時期も変わりませんでした。
ごくありふれた浴槽ですので、深さは50センチはあるはずなんですが、そこに降りて、また自分でジャンプして上がっていました。
それでも、やがて状態はまた悪くなるだろうと、予想はしていました。
週に1度で済んでいる点滴が、週に2度、3度、そして毎日になっていくのだろうと思っていました。
毎日点滴が必要になるようであれば、点滴を続けるかどうか、考えなければならないんだろうなと思っていました。
しかし、私が考えていたより、ずっと現実は唐突でした。
月曜日、点滴をして、いつものように風呂場で口論して。
この頃、失禁が本当にひどくなって、布団の中でもしてしまっていたので、トイレ用のシートを敷いて一緒に寝ていました。
それ以外、特に何もなく(食欲も旺盛でしたし)、私は椰の失禁対策だけ考えていました。
幸いにも、クローゼット前とリビングの一定の場所と、失禁の位置は決まっていたので、その位置にシートを敷くだけで大丈夫でした。
本当に何もなく、回復とはいえませんが、良好な状態を保っていました。
急変したのは、火曜日の夜です。
夜、寝る時はいつも、寝るよと声を掛ければ、一緒に寝室に来て、椰は自分でベッドに上がっていました。
でもこの日、椰はベッドにジャンプできませんでした。
30センチ程度の低いベッドです。
自分に何が起こったのかわからないという顔を椰はしていて、私も同じ気持ちでした。
とりあえず、ベッドの上に抱き上げて、一緒に寝ました。
翌朝、シートの上で失禁していましたが、椰は自分でベッドを降りました。
ご飯よ、と声をかけると、ヨロヨロとした足取りでしたが、自分で歩きました。
まだ大丈夫かと、私は出勤しました。
昼に戻ると、椰はお気に入りの私の座椅子で寝ていました。
動けそうにないと思い、椰の傍にフードと水を置き、帰宅したらすぐ病院へ連れて行こうと思って、会社に戻りました。
そして、17時25分過ぎ(定時は17時30分です)、急にPCのアクセスがおかしくなりました。
椰が死んだと、直感しました。
でもそんな、勘なんか外れるよと自分に言い聞かせ、大急ぎで帰宅しましたが、椰の呼吸はもう止まっていました。
声を上げて泣いたのなんか、もう15年ぶりくらいでした。
今、この文章を書きながらも、涙が出ています。
あんな喪失感、あんな悲しみは、もう2度とないでしょう。
私と椰は2人きりで生きていましたから。2人だけで、世界は完結していました。
椰の世界には私しかいなかったし、私も椰以外はどうでもよかった。世間とのかかわりは、椰を守るためだけのものだった。
世界の崩壊でした。
北斗の拳で、聖帝サウザーが恩師の死により「こんなに悲しいのなら、こんなに苦しいのなら、愛などいらぬ!」と言った時の気持ちがよくわかります。
私は将星の宿命なんて持たない凡人なんで、すべて捨てることができず、はーろを迎えたわけですが。
そういえば、私の膝で伸びていたはーろは、この文章を書き始めると膝を降りました。
どこまで空気読める子なんだ。
椰がいなくなった部屋に一人でいることは平気でしたが、部屋に戻るのが苦痛でした。
帰っても誰もいない、椰の待っていない部屋に何で帰らなきゃいけないのかと、毎日、会社から帰る途中、泣いていました。
自転車通勤で良かったです。これが電車だったら、思いっきり変人扱いされてましたね。
もっとも、昼休み中に帰宅できるよう、自転車通勤可能な範囲のアパートを選んでいたんですけど。
傍から見たら、会社でよほど辛い目にあってるのかと思われたんでしょうが、会社にいる間は業務に集中していましたので、大丈夫でした。
帰宅するのが嫌で残業していたくらいでした。
今は、はーろが待ってくれているから、帰るのが嫌でなくなり、早く帰らなきゃと思ったりしています。
椰の容体が徐々に悪化していったなら、覚悟を決められたのかなと思います。
ただ、17歳の誕生日を迎えた雄猫なら、何が起こっても当然だと覚悟を決めておくべきだったのだとも思います。
涙なしに椰を思い出すことができるようになるまで、後、どれくらいかかるんでしょうか。
一生、癒えないままでしょうか。
でも今は、はーろがいてくれるから、どんなに泣いても、慰めてくれる温もりがある。
結局、独りでなんて生きていけないことを思い知りました。
愛したと断言できる存在は、人間含めても、椰だけでした。
↓写真撮るのに、こっちを向かせようと何度も呼んだので仏頂面の椰です。15歳頃かな。
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