
今日はホワイトからの歌便りは一休みで主の報告です。
先週の日曜日、写真展に行ってきました。
そう、皆さん御存知の福山雅治さんが地元長崎で開催されていた写真展「残響」です。
私は、福山さんのファンでもなければ写真愛好家でもありません。
では、なぜわざわざ出かけたのでしょう。
実は、地元での活動がない福山さんを、地元を捨てた人と勝手に決め付けていました。
ところが、その本人が写真展を開催する、それも軍艦島を写している。
軍艦島:正式名称、端島は、長崎港から南西へ約19キロ。1890年、三菱が採炭を開始し、埋め立てを繰り返して、周囲約1.2キロの現在の姿になった。1916年には、日本初の高層鉄筋アパートを建設。最盛期の60年には約5300人が暮らし、人口密度は当時の東京都の9倍を超えた。その姿が軍艦「土佐」に似ていたことから「軍艦島」と呼ばれる。74年1月に閉山し同年4月、島は無人となった。(西日本新聞より)

軍艦島についてのホームページがありました。
もっと詳しく知りたい方は下記をご覧になってください。
栄枯盛衰の記録が載っています。
http://www.gunkanjima-odyssey.com/index.html
当時三種の神器と呼ばれた家電製品が完備されていたハイテク都市の筈であった。
しかし、その下では過酷な労働を強いられていた人々もいたらしい。
長崎の負の遺産。
後に、エネルギー革命の運命に翻弄され、島の存在事態が不要になった企業は立ち入り禁止とし、現在に至る。
島には当時の建物はおろか、家財道具や食器にいたっては食卓に置いたまま放置されていたものもあるとの事。いかに慌しく住民が島を追い出されたかを物語っている。
きっと、猫達も飼われていただろうが、今では放置され野良猫の島になってはいないだろうか。しかし、その姿は写真からは確認出来なかった。今はそれは知る由もない。

そんな歴史を持つ軍艦島をなぜ彼が撮影したか。
長崎を写すのに、「おくんち」でもなく「精霊流し」でもなく、ましてや「ランタンフェスティバル」でもない。「軍艦島」でなければならなかった理由が何かを見つけるために出かけたのでした。
そして、少し分かったような気がした。
長崎にとっての軍艦島の存在は、良い思い出もあれば苦しく辛い事実があるのが現実です。
彼にとっての故郷に対する思いも同じなのではないかと感じた。
ひたすら夢を見ていた少年時代。夢を現実にする為に故郷を旅立つときの揺れる心。
目標に向かい真っ直ぐにすすんでいる現在。
いつも、故郷を忘れたことはなく、帰ってみれば思い出が残っている。
しかし、その思い出は昔のままではなく崩れかけている。
そういったものを表現したかったのではないか。
著作権の問題もあり画像は載せられません。
もし、見ていない方は下記を探して見て下さい。
http://gallerynakano.soreccha.jp/e12070.html
6枚組みの写真です。
皆さんはいかが感じましたか。
これは私の勝手な邪推です。
私は左下の写真が一番好きです。
過去を振り返らず、雑念を振り払ったかのごとく真っ直ぐに伸びる船の軌跡。
今の福山さんの人生が出ているようだと感じました。
本当の彼の気持ちは彼自身から聞かなければ分かりません。
これを機会に軍艦島に注目が集まればいいのですが。
テレビでも特集があるそうです。
日本テレビ系列 “NEWS ZERO”で特集された、写真展「PHOTO STAGEⅢ」の開催までを追ったドキュメント、30分スペシャルバージョンの新たな放送予定情報です。
タイトルは 「ZERO 特別版 独占! 福山雅治 故郷を撮る」
何か、番組の宣伝になってしまって申し訳ないです。
ただ、彼が古里を捨てた人間ではなかったことだけは間違いないと感じました。
今彼は、長崎故郷大使を名乗っています。
今後の活躍に注目です。
今日は、重い話になり、申し訳ないです。
日記よりコラムのようになってしまいましたね。
by主のゲン
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