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「本日は某が猫についてのトリビアを少々」
お松権現は、時は天和~貞享年間(1682~1686)、今より約300年前の阿波国那賀郡加茂村(現阿南市加茂町)は不作続きの年をむかえ、この村の庄屋 惣兵衛は村の窮状を救うため、私有の田地五反を担保に、近在の富豪 野上三左衛門よりお金を借り受けていた。 返済期限も近づき、丁度通りがかりの三左衛門にお金を返すが、通りがかり故証文を受け取っておらず、庄屋 惣兵衛は間もなく病死する。 惣兵衛の死後、その妻お松は幾度となく証文を請求するが渡そうとしない。後にお金は受け取っていないと偽られ、担保の五反地までも横領される。思案の末、奉行所に申し出るが、お松の華麗な容姿に心を寄せ、食指を動かそうとする奉行 越前。お松は奉行の意に応じなかったため、また三左衛門からの袖の下を受け取っていた奉行は非理非道な裁きを下してしまった。お松は権力におもねる悪行に死を決して抗議する。それは直訴であった。
貞享3年5月、藩侯の行列をよぎり直訴、その年の3月15日、お松は日頃寵愛の猫 三毛に遺恨を伝え、処刑に殉ずる。その後、三左衛門、奉行の家々に怪猫が現れ怪事異変が続き、両家は断絶している。正義へのかぎりなき執念に死をも厭わず貫き散ったお松さまの悲しい生涯、その美徳を偲び今も参詣者は絶えない。現在、お松大権現と崇められ、その社殿には千万の招き猫が奉られている 。
以上がお松大権現の由来です。
愛玩動物として飼われるようになったのは、平安時代からとされ、宇多天皇の日記である『寛平御記』889年2月6日に、宇多天皇が父の光孝天皇より譲られた黒猫を飼っており、寛平記には家の猫、超ー可愛い的な親ばかならぬ猫ばかぶりを発揮していたり、一条天皇と定子は非常な愛猫家で、愛猫に、命婦のおとど(命婦には「五位以上の女官)と名付け従五位下を与え、ある日このネコが翁丸というイヌに追いかけられ天皇の懐に逃げ込み、怒った天皇は翁丸に折檻を加えさせた上で島流した。ネコに位階を与えたのは従五位下以上でなければ昇殿が許されないためである。
イスラム世界では、預言者ムハンマドがネコを可愛がっていたと伝えられており、現在でもネコは好まれる。
北欧の女神フレイアは2匹の猫の引く車にのり、この猫は雷神トールの腕力でさえ一匹も持ち上げる事すら出来ず、その猫の子孫がノルウェージアン・フォレストキャットだと信じられています。
猫の頭を持つ女神バステトは、恵み豊かな太陽の熱を神格化したもので、夜になって眠りこんだ太陽を蛇どもから守るために寝ずの番をしていると言います。
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「いや~猫って本当に良いものですね、其れではさよなら、さよなら、さよなら」
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