久々の日記の更新になります。
理由は後ほど・・・。
以前に、人間と動物の関係学について、お話ししましたが今回はそれの続きです。
前回は関係学とは何か?ということでしたが、今回は関係学の考え方についてやっていきます。
動物に対する強い思いから、様々な活動を展開させている人々は大きく2つに分けられます。
1つは「動物の権利を人間のそれと同等である」と主張する動物権利論者、アニマル・ライツ派であり、もう1つは「人間が動物を利用することを全面否定することなく、いかなる場合でも対象となっている動物の福祉が守らなければならない」と主張する動物福祉論者、「アニマル・ウェルフェア派」です。
しかし、本当にこのような単純な分け方をしてもいいものなのかどうか・・・。
そこで「アニマル・アドボカシー」という言葉に目を向けてみましょう。
アドボカシーもしくは「アドボケートであること」とは、特定の事柄、考え、物などを提唱する、弁護する、もしくは代弁する、ということです。
ゆえにアニマル・アドボケートである人間とは、動物の立場を理解し、世に知らしめる代理人であり「動物の代弁者」であるということができます。
人が動物のために何かをしようとする時、まず行うこととは、動物のおかれている現状を正確に把握し、それを社会に向かって知らせていくことです。
それは社会一般の動物に対する無理解をなくしていくために、かわいそうな動物を探すよりもより重大なことです。またそうしていかなければ、動物との持続可能な共生をもたらすことはできないでしょう。
では、アニマル・アドボカシーが、アニマル・ライツ派とアニマル・ウェルフェア派とにどのような関係を持つのか考えてみましょう。
ライツを「権利論」、ウェルフェアを「福祉論」とすれば、アドボカシーとはそのどちらにもあてはまることができる「提唱」行為を行うことと考えられます。
では2つの理論、立場を比較してみます。
アニマル・ライツ
動物の権利を人間と同じに認めなければならない。
それをつきつめて考えていけば、動物を食べること、ペットとして飼育すること、実験に供すること、展示することなども全てが問題であることになります。
アニマル・ウェルフェア
動物の福祉を主体にした考え方。
人間による動物の飼育や肉食など、必ずしも否定するものではない。
人間に食べられる動物でも、展示される動物でも、最後まで彼らの福祉に対する気配りが必要であり、生活の質を維持してやることが必要である。
アニマル・アドボカシーとはこの両者、いずれの考え方をベースにしても成り立つものです。しかし、現実には動物と関わっている人々大半は「ライツ派」と「ウェルフェア派」にはっきりと分けることはできません。
つまり動物のために活動する人々の多くは、動物権利論と動物福祉論の間のどこかに、「みなそれぞれの「バランシングポイント」を持っていて、その視点に立ちながらアニマル・アドボケートとしての情報普及活動を展開させていると「いえます。
おそらく、世の動物関係者にとってはこれが最も自然な状態なのでしょう。
人間の考えは十人十色ですから、それを肯定することはできても、否定はできないものだと僕は考えます。
さてさて・・・・・改めまして皆様、お久しぶりの日記の更新ですm(_ _)m
実はパソコンが不調だったため、ネットがいつ切れるか分からない状態・・・。
なので皆さんの日記にコメントだけ、という状態が続きました。
ここ数日は新しいPCのセッティングや、慣れるために四苦八苦しておりました。
これからは前みたいにちょこちょこ日記の更新ができると思います。

新しいPCです。
このPCを購入するまでの話は、ブログに順次更新していきます。

リュウさんも元気ですよ^^寝てますけど・・・。
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