「落ちたぞ」
ピースを中心に泉に集まっていた猫たちのところへ、見返り岩からヤマネコの太い声が大地を揺るがすように届いた。
今か今かと待っていた猫たちの間にざわめきが起きた。
「チップ」
チャーミーが心配そうに見つめている。
「ピースいくぞ」
呼応するように立ち上がったチップは、おばさんからピースを預かった。おばさんは真っ直ぐに見つめ返してくる。
チップは力強くうなずき、胸いっぱいに空気を吸い込むと、ピースを咥えて泉に思いっきり飛び込んだ。周りにいた猫たちも後を追うように泉の淵から身を乗り出して覗き込んでいる。しかし、透明度の落ちた水の中は地上から見る事はできなかった。
水面には気泡だけが残されていた。やがて何事もなかったように波紋も消え、静まり返っていく。
固唾を呑んで覗き込んでいる猫たちは身動きもせずにいる。
「チップ頑張って」
チャーミーは誰にも聞こえない小さな声で水中に向かいつぶやいていた。
水中では、チップがヤマネコに教わったように手足を必死に動かし泳いでいた。泉の底から湧き出る涙の光を目指して。
泳ぎながら、脳裏にピースとの事が思い出されてくる。
ヤマネコに咥えられてやってきた時の事。
おばさんにお世話を頼みに行った時の事。
ピースと名前をつけた仔猫が実は現世でまだ生きていると分かった時の事。
ピースが原因で泉の水が減り始めた事。
現世に返すにはヤマネコの協力が必要だった事。
全てを乗り越え、今やっと現世に返す事が出来る。
辛くない別れなんてあるはずない。
ここに暮らす者たちはみんな現世で一度亡くなったものばかり、もう寿命とは関係がなかった。現世への未練がなくなるまでゆっくりと疲れた体と心を癒すことができるのだ。ピースを現世へ無事に帰すことができれば、もう一度会う日までみんな待っているかもしれない。いつまでも、いつまでも、ピースが寿命を全うするまで待っておくことができるのだ。寂しさなんかないはずだ。
それでも目頭に熱いものを感じる。溢れ出す涙は泉の水にかき消され見えなくなっていく。
チップは、ひたすら泉の底を目指すことだけに気持ちを集中した。
ようやく、泉の底に虹色に輝く光が見え始めた。ピースの為に人間が流した涙だろう、チップには確信があった。後はピースに触れさせるだけだ。
もう少しという所まで来て、思うように進まなくなった。急がなければ、涙の輝きが消えてしまう。焦りが生じたチップは
今まで以上に手足を動かした。
しかし、必死になればなるほど進まなかった。
泳げない者が、がむしゃらに手足を動かし全く進まないのと同じだ。泳ぎに慣れていないチップでは仕方ないことであった。
涙の輝きはどんどん薄れていく。消えてしまうと今までの苦労が、みんなの期待が全て無駄になる。
その時、ヤマネコが別れ際に言った言葉が脳裏に蘇ってきた。
「いいか、体の中に空気があると浮力があって沈まない。空気を全て吐きせば仔猫と自分の体の重さで沈むはずだ。どうしても間に合わないと思った時の最後の手段だ。その代わり長くは持たない事を忘れるな。浮び上がれなくなるぞ」
もう少しで重要な助言を忘れるところだった。
「ありがとうヤマネコ」
チップは覚悟を決め、胸いっぱいに吸い込んでいた空気を思い切り吐き出した。
吐き出した空気は大きな気泡となり、暗い水の中を水面目指して上っていく。辿り着いたところではみんなが心配して覗き込んでいるはずだ。もう二度と日の当たる場所に戻る事が出来ないかもしれない。それでも良い、ピースを現世に返す事が出来れば。
「必ず、帰すから」
チップは声にならない言葉を気泡に詰め込んで思い切り吐き出した。
ヤマネコが言った通りだった。空気を吐き出した体は手足を動かさなくても二匹の重さでどんどん沈んでいく。
それと共に、意識も遠ざかっていく。
涙の輝きが間近に迫ってきた。七色に輝く涙の粒だ。
「もう少しだ」
「ピース」
「帰れるぞ……」
「も、う、……、す、……」
薄れいく意識の中でチップは必死に自分自身に言い聞かせていた。
しかし、輝く涙を寸前にして遂にチップは意識を失ってしまった。
チップの体が水底に沈んでいく。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
力をなくしたチップの口から咥えられていたピースも離れた。
静かに沈んでいく。
冷たい泉の底を目指して、沈んでいく。
つづく
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
いかがでしたか、今回のお話。
ついに現世で人間が落とした涙にピースを触れさせる時がきました。
ところがあと少しのところでチップは力尽きてしまいました。
あー、どうすればいいのでしょう。
早くしないと涙の輝きが消えてしまいます。
緊迫した状況、伝わりましたか。
さて、年内に終了する予定だった物語も終盤にきて色々書き足しているうちに長くなりました。
来年の一月中は皆様に楽しんでいただけそうです。
最終回は一月末に予定します。
次回もお楽しみに。
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By ホワイト
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