六
冷たい泉の底では横たわったままでチップが夢を見ていた。
「チップ、良く頑張りましたね」
「あなたは誰ですか」
「私は、あなたのお母さんが流した涙です」
「でも、ここは現世で人間が流した涙が集まっているところでしょう」
「ええ、もちろんそうですよ。でも、丘陵で猫たちが流した涙も地中を通りここに集まるのです。あなたのお母さんも丘陵へやってきた時は、毎日毎日、見返り岩で涙を流しながらあなたを探していました」
「ぼくには涙を流してくれるお母さんなんかいないよ。生まれた時から一人ぼっちなんだから」
「いいえ、そんなことはありません」
「間違いないさ。だってお母さんの事なんか覚えていないもの」
「あなたはまだ小さかった頃に随分と辛い経験をしてしまいました。辛い記憶から逃れる為にお母さんへの思いを自ら断ち切ってしまったのです。だからお母さんがいくら見返り岩であなたの事を見ようとしても見ることが出来ませんでした。今でもあなたと再会できることを信じて待っていますよ」
「本当に待っていてくれるの」
「あなたがお母さんを信じていれば必ず再会できます」
「でも、もうここから浮かび上がれないよ。地上に戻ることが出来ないんだ」
「仲間との絆を信じて、待ちなさい。諦めてはいけません。あなたの気持ちは伝わるはずです」
光の球が飛び去った見返り岩では、ヤマネコが瞑想していた。
現世でのピースの様子を見ているのだ。
「どうですか、ピースの様子は」
現世のピースを見る事が出来ないレオは見返り岩の下で落ちつかないようにウロウロしていた。
「さっきと変わらない。仔猫の手を女性が握ったままだ」
光の球は丘陵を下って行ったのに、まだ現世に着かないのだろうか。レオは不安になってきた。あれは本当にピースだったのだろうか。
「待て、虹だ。窓の外に虹が出ている」
「まだ、夜が明けたばかりなのに虹ですか」
レオが不思議そうに応えていた。
「そうだ。病室へ向かってくる。人間たちには見えないのか、気付いていないみたいだ。どんどん近付いてくる」
ヤマネコの声が緊張している。
「窓の隙間から入って来た。あっ、仔猫に吸い込まれてしまった」
ヤマネコの言葉にレオは背筋を伸ばして目を見開いた。
「女性の様子がおかしい。顔を上げて白衣の男性を見ている。何か言っているみたいだ」
ヤマネコの声にも緊迫感があった。
「男性が仔猫の体を触り始めたぞ」
レオは見返り岩の上に身を伸ばすようにして聞いている。
「男性が大きく頷いて女性を見て微笑んだ。何があったんだ。戻ることができたのか」
いつも冷静なレオが、我慢できずに見返り岩を上って来てヤマネコの横にやってきた。ヤマネコを食い入るように見ている。
「レオ、目が。目が。仔猫の目がゆっくりと開いていく。やったぞ、現世に帰ることが出来たんだ」
ヤマネコが興奮していた。
レオは自分でピースの様子が見えないことがじれったくて仕方がない。ヤマネコの顔に自分の顔をくっ付けている。一緒に見ようとでもしているようだ。
「チップ、やったぞ。お前、やったんだ。大成功だ」
ヤマネコは振り返りながら誰もいないところに向って叫んでいた。
チップは泉でピースを涙に触れさせることが出来たら見返り岩に飛んで来ると言っていたのだ。すでに駆けつけているとばかり思っていた。
ところが返事がない。
「そう言えば、チップはまだ来ていませんね」
先ほどまでの興奮が嘘のように冷静に話すレオだ。
「何。まだ来てないのか。まさか、あいつ」
ヤマネコの目は見開かれ、言い終わらないうちに見返り岩を飛び降りて、泉の方へ駆け出した。
ものすごいスピードだった。
家猫として暮らしていたレオたちには考えられない瞬発力であった。
何が起こったのかわからないレオは一人取り残されてしまった。
「待っていろ、チップ直ぐに助けに行くからな」
走りながらヤマネコは心の中で叫んでいた。
チップが最後の力を振り絞りピースを現世に返そうとしたのがヤマネコには分かっていた。自分が別れ際に言った事を実行したのだろう、チップらしいところだ。あとの事は考えずに真っ直ぐに突き進む。たとえ自分自身が犠牲になろうとも、相手の幸せだけを考え行動する。
「だれがお前をそのままにするものか」
必死に走るヤマネコの頬を涙が流れていた。次々と風に飛ばされ落ちていく。
落ちた涙は花となり咲いていく。ヤマネコが走り去った跡には一直線に綺麗な花の道が出来た。チップとヤマネコをつなぐ絆のように、一直線に伸びていった。
泉の周りではチャーミーたちがチップを心配し水中を覗き込んでいた。
「チップ。チップ」
チャーミーの声もむなしく響くだけだ。
そこへヤマネコがものすごい勢いで駆け込んできて、チャーミーの後ろから頭越しに泉の中へ飛び込んだ。
驚いたのはチャーミーだ。何事かと思った時にはヤマネコの姿はすでに水の中だった。
泉の水はピースが現世に帰ってから徐々に戻りつつあり透明度も増していた。
水深が深くなりつつある泉では急がないとヤマネコまでもが水底に沈むことになる。
「ヤマネコだ」
チャーミーと一緒だったライカが叫んだ。
そのときはすでにヤマネコの姿は水中へ消えていた。
ヤマネコは必死で潜っていく。泳ぎに慣れているだけあってチップよりはるかにスムーズに潜って行く。すると水底に七色に輝く明るい場所が見え始めた。
水中に咲く、虹色の花のようだった。中心にチップが横たわっているのが見えた。
より加速をつけてヤマネコは進んだ。
辿り着いたヤマネコが見たのは目を閉じたままのチップだった。穏やかな満ち足りた表情をしていた。
「馬鹿やろう。一人でこんなところでくたばりやがって。さ
あ、帰るぞ」
ヤマネコは心の中でつぶやくとチップを咥え、水面を目指した。
仔猫とは違い体の大きなチップだ。水中とはいえ一人で咥えていくにはかなりの重量だ。途中で力尽きるかもしれない。それでもヤマネコは構わなかった。今までは野生として孤独に生きてきた。ここへ来て初めて友情といえる絆を感じることができた。一人きりではない。いつもそばに友がいる事のすばらしさを教えてくれた。友と共に眠れるのであればそれでも良かった。
必死に泳いでいたヤマネコの体力も次第に尽きようとしていた。
まだ水面までは距離がある。薄れいく意識の中で手足を動かし続けた。
泉の底からは新しい涙が湧き出始めていた。どんどん水深も深くなっていく。それだけ水面が遠ざかることになった。
ところがこれがヤマネコに幸いした。水面に向かって勢い良く水が上昇しているのだ。
湧き出る涙の流れがヤマネコを水面に押し上げてくれた。
水の流れに乗ったヤマネコはチップを咥えたままついに水面に飛び出してきた。
「チップ」
最初に駆け寄って来たのはチャーミーだ。
「大丈夫なの」
水面に浮かぶヤマネコに向かって叫んでいた。
ヤマネコはチップを咥えたまま岸に上がってきた。
「ああ、何とか間に合ったぜ。もしもの時は俺もチップと水没
するところだった」
ヤマネコは荒い息を整えるように大きく呼吸している。
そばに横たわるチップをチャーミーが前足でフミフミして始めた。そのたびに口から水が噴水のように吐き出される。
口から水が出なくなるとチャーミーはびしょ濡れのチップを労わるようにグルーミングし始めた。
しばらくすると、チップの手が動いた。
指先をニ三度開いたり閉じたりしている。
「チップ。気がついた」
チャーミーが優しく覗き込んだ。額を擦り付けている。
「チャーミー、ここは」
うっすらと目を開けたチップがチャーミーを見つめ返した。
「ヤマネコがあなたを引き上げてくれたのよ」
「ヤマネコが」
チップはまだ状況が理解できていないようようだった。
「そうだ、ピースはどうなったの」
チップが思い出したようにチャーミーに聞いた。
「見ていなかったのね。ピースは無事に虹になって現世に戻っていったわ。チップ、成功したのよ」
チャーミーは誇らしげにチップの顔を舐めながら教えてい
る。
「そうか。良かった。夢で聞いた通りだ」
チップは、「仲間との絆を信じて待ちなさい」という母親の涙が言った言葉を思い出していた。
「夢」
チャーミーが首を傾げてみている。
「ううん、なんでもない」
そう答えるチップのそばにヤマネコがやって来た。
「これで、借りは返したぞ。それにしてもお前、無謀だな。俺も一緒に泉に沈むところだったぜ」
ヤマネコは感心したように見つめている。その顔に涙は見えなかった。誇らしげに友を見る瞳は熱く燃えていた。
「俺は見返り岩に戻る。レオのじいさんを残してきたからな」
そういうとすぐに背を向け走り去っていくヤマネコだった。
「ありがとう」
チップは遠ざかる後姿に礼を言い、疲れた体を休めるようにゆっくりと目を閉じた。
つづく
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
いかがでしたか、今回のお話。
チップも救出され丘陵に平安な時が戻ってきました。
いよいよクライマックスです。
でも、何か忘れていませんか。
そう、チップの生い立ちです。
年が明けると明かされていきます。
そしていよいよラストです。
次回は1月9日を予定しております。
次回もお楽しみに。
By ホワイト
さて、今年も押し詰まり一年を振り返らなければなりません。
今年は二本、コンテストに作品を応募しました。
一つは昨年も応募したユナイテッドシネマが主催する映画のもとになる作品募集、「ユナイテッドシネマ、プロットコンペティション」でした。
そして、もう一つは、文芸社が主催する「犬とネコとわたし」というものです。
ここ、ネコジルシに投稿されていた方の日記を読んで、我が家のホワイトと掛け合わせて書いた作品です。ネコがテーマになっている物にはすぐに飛びつきます。
もし、読んでみたいという方がおいででしたら、現在「作家でごはん」サイトに掲載中です。
タイトルは「十五本目の首輪」、著ホワイトです。
http://sakka.org/training/?mode=view&novno=4730
(五面落ちすると削除されますのであらかじめ御了承下さい)
入選四十作品の中には入るかと思って安易に考えておりました。
1088作品の応募があったということで、なかなかどうして厳しかったです。
これは贈られてきた参加賞です。
唯一の戦利品となりました。結果は見事な予選落ち。
ただいま、どこを修正すべきか反省中です。
でも、私個人としては大変貴重な記念品です。
お弁当入れ位にはなりそうです。
ぜひ、来年は「虹になるまで」で何とか予選通過したいものです。
まあ、そんな今年から脱却するため、先週、戯曲の講座を受けてまいりました。登録人数は17人。今回の参加者は10名です。
参加申し込みに添付した作品を市川森一先生自ら御指導頂きました。
ど素人の私のような者が書いた作品を著名な作家の方が目を通して頂いたと思うだけで舞い上がっております。
その上じきじきに御指導頂く事がどれほど有意義な事か。
今、頭の中の回線がバチバチと弾け飛んでおります。
来年のクリスマスに上演できるような演劇の脚本をそれぞれが書いているところだそうです。
戯曲を読んだり、舞台を見た方がぜひクリスマスは長崎に行って見たいと思うような脚本を求めているということです。
「虹になるまで」が書き終わったら私の作品のプロットをここにも掲載して、皆様に色々なアイデアを求めたいと思います。
その節はぜひご協力よろしくお願いいたします。
今は「虹になるまで」を最後まで書き終える事に集中いたします。
来年の目標はこれで予選通過です。
応援よろしくお願いいたします。
By 主のゲン
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